Vol.45 / 2006.6.18
青木智仁さんを偲んで
本田雅人くんがT-スクエアを離れ、ソロ活動に入った二年目のツアー「Carry Out」。1999年のこの全国ツアーが、青木さんと僕とのミュージシャン・シップの始まりでした。
高知への移動日にメンバー全員で市内散策。高知城の、狭い天守閣最上階を陣取って、青い空をただただ仰ぎ見ながら皆で過ごしたあの時間。過酷なまでに己自身と向き合うことが天命の僕ら演奏家にとって、互いの心が通じ合うのを実感できた至福のひとときでした。
確かその日だったと思います。酒場を探して、ひとり夜の街に消えようとしていた彼のあとを追って、無理やり同席を願い出ました。「呑むと恐い!」が通説だった当時の青木さんですが、まだ付き合いの浅かった僕には、その真偽を確かめる必要があったのです。しかし、そこにいたのは、他にたとえようも無いほど優しい青木さんでした。
ツアーが非常にいいかたちで進んでいる事を喜び合い、それまでの互いの音楽人生の経緯や、尊敬するアーティストについて延々と語り合いました。その中で、若かりし日、絵描きになりたかったことや、神戸での下積み時代の話など、意外な彼の側面をいくつも知ることになりました。
「なぜいつも黒い服を着ているのですか?」の問いに、「母さんを亡くしてから、生涯ずっと喪に服そうと決めたからだよ。」・・そっと答えてくれた時の彼の悲しくも優しい目を、今でも忘れることができません。
湿ったロックグラスのコースターを裏返して、彼は何やらごそごそ書き始めました。「青則セッションってのはどう?やる気あったらこの誓約書にサインして!」もちろんすぐにサインをしたのは云うまでもありません。
あれから7年。本田雅人バンドを核に、青則セッションをはじめ、本当に色々なライヴ、レコーディングを数多く共にさせていただきました。2002年初頭、無謀にも渡英を決心した僕を理解し、送り出しのスペシャルなライヴを企画してくださったのも彼でした。理想のアーティスト像というものを、どこまでも追い求め、貫こうとする彼の姿勢が、僕は大好きでした。
読みにくいマスタースコアをいち早くパート譜に書き換え、どんなに忙しくとも完璧に予習してから現場に臨む。そして曲順に沿って綺麗にファイリングする。
遅刻をせず、早め早めに現場に入る。
バタバタした現場でも無粋に慌てず、まずはスターバックスコーヒーを優雅にやりながら周りの空気を整える(時間に余裕のあるときは、自らのアシスタント君を使ってメンバー全員分のスターバックスのオーダーを採ってくださいました)。
アンサンブルのなかに土足で上がり込むような演奏をしない。
禁酒時代も、ソフトドリンク片手に、静かに打ち上げの行く末を見届ける。(意外にチョコレートもお好きでしたね?)
日本語を実に良く知っている。そして正しい日本語をきちんと話すよう努める。
とても達筆で美しい字を書くことができる。
英会話も習いにいく。
必要とあらばスポーツジムにだって通う。
身だしなみに気を配り、身につけるものにもこだわる。
先輩アーティストや恩人へのリスペクトを片時も忘れない・・・。
人を笑わせることも忘れない。
そして、低音でしっかりと支える。
これらすべて、僕の知る青木さんが徹底して実践しておられたことです。
去年12月に本田バンドでタイのジャズフェスに出演したときのこと。僕たちの出番が終わるや芝生席に侵入、一緒にボブ・ジェームス・グループやラリー・カールトン・バンドを観たときの青木さんの嬉々とした表情!それはまるで子供のように純粋で情熱的な笑顔でした。
今年は本田バンド年越しライヴで一緒に新年を迎えました。楽しい余興も含めて最高の一年の幕開けでした。2月には彼の呼びかけで角松敏生さんのツアーにも参加させていただきました。彼の本拠地ともいえる環境での演奏は、僕にとって発見と喜びに満ちた素晴らしい体験となりました。
そして3月の本田バンド韓国公演・・青木さんのソロでオーディエンスは一気に総立ちになり、ピークを迎えました。それが青木さんとの最後のステージになるなんて・・やはり今でも信じられない。8月には二人でリズム・セミナーをやる予定でした。12月にも・・。
6月12日、彼は急逝されました。
ちょっとナイーヴでひょうきんで、圧倒的に粋でダンディーだった青木智仁さん。そしてなにより彼はスター・プレイヤーでした。本当にかっこよかった。
そして本当に優しかった・・。
数えきれないほどの素晴らしい思い出を本当にありがとうございました。
どうか宇宙の真ん中で、これからの音楽シーンを見守っていてください。
そしてもっともっと素晴らしい世の中となるように。
彼の遺した偉大なる功績を讃えて。ご冥福をお祈りいたします。
合掌